第15話 羊をいただく
9月30日(水)
朝の礼拝をすませた石川君が起こしにくる。外は気持ちいいよー。にわとりと牛の鳴き声が聞こえてくるほかは何の音もしない。この無音な感じ、トルコのアダナの村の家で朝感じた感じと似ている。日頃わたしたちは本当にノイズだらけの所で暮らしているんだなあ。これくらい無音な朝の空気はなんか質感が違う。藍子を起こして外へ出てみると家の人はみんな起きていて、家の裏にまわると裏は小さな山になっていて、飼っている牛たちを子供と奥さんが放している。牛はてんでに山を登って草を食べたり歩きまわったりしている。朝日はもうすっかり顔をだしていて、空が青く光っている。石川君もアリシェルさんもみんな山に登っているので私と藍子も登っていった。
上を見ると、さえぎるものなく太陽と空が私に向かってくる。小さな1個の生身の人間としての自分を感じる。圧倒的な自然に対峙する力が、わたしには足りない。日本での私の生活や日々考えていることなど、ここでは何も意味をなさないのではないかとすら思えてきてしまう。
牛たちと一緒にぶらぶらと山をおりる。家に戻ると朝食の用意ができていた。
朝食は目玉焼きとソーセージ(多分市販品)、ヤギの頭と内臓のソーセージ、やぎの脳みそペーストを塗ったナン、ぶどう、レーズン、くるみ、ナン、お茶。ハビブさんがまた丸いナンを固そうに割ってゴトリと配ってくれる。ヤギのソーセージは私は辞退しちゃったけど、脳みそペーストは少しいただいてみた。レバーペーストみたいで結構いける。ハビブさんもこれを塗るナンは薄くスライスしてから塗ってくれた。ウズベキスタンのナンはすごく大きいので、結構残るのに食事のたびに新しいのを割ってくれるのはお客へのもてなしということなんだろうなと思う。アリシェルさんが前に話してくれたのだが、ウズベキではナンは本当に大切にされている。結婚式のときにナンを頭の上において、ナンを自分たちより大切にします、と誓うのだそうな。そのほか、テーブルに置いたナンは決して裏返しに置いたりしない。残さない、捨てない。など、厳しくしつけられているそうだ。日本でもお米に対してはそういう考えですよ、とアリシェルさんに話したのだが、米の一粒でも大切にしないと叱られたのはどのあたりの世代までだろうかと考えてしまった。食事のたびにナンを割ってくれるハビブさんのその大切そうな尊厳のあるしぐさがとても印象的だった。
朝食を済ませると車のお迎えが来ていて、羊飼いの人のところまででかける。ハビブさんは車は持っていなくて、近くの人に頼んで乗せてもらっているらしい。小さな集落なので、あっという間に何もないほこりっぽい道をガタガタと走っている。よく道がわかるもんだと感心する。そして、本当に何もないところに小さな建物が見えてきて、そこで止まると細長く四角いコンクリートのかたまりは家だった。
靴をぬいでちょっと上がっておしゃべりをする場所。
今近くで羊とヤギに水を飲ませているから見に行こう、というので歩き出す。地面はずっと平らな荒れ地。こういうのを砂漠(デザート)というのだそうな。砂丘ではなくね。そして孤独な電柱がはるか彼方から並んで立っている。電気だけはこうしてやってくるのだ。
コドクな電柱。しかしさっきの家にも電気はきているし、テレビもあった。
日差しがすごく強くてさえぎるものもなくて、頭がくらくらする。頭上からも足元からも太刀打ちできないくらいのエネルギーが放射されてる感じがする。
歩いていると途中でロバにのった男の人とすれ違う。男の人は足をしばった黒い羊をかかえている。あとであれを切ります、とハビブさんが言う。前方にヤギの集団が見えて、井戸からくみ上げた水を飲ませる場所になっているのがわかってきた。
羊飼いのおじさんは乱暴に足で蹴りながら羊たちに水を飲ませていた。多分そうしないと気の強い羊しか水が飲めないのだろう。
今来た道をまたぶらぶら歩いてもどり、家に着くと、少し離れた木陰で羊を切ることに。「羊を切る」という言い方は、アリシェルさんが日本語で通訳してくれるときに言っていた言い方で、最初はちょっと違和感があったのだが、「斬る」とか「kill」とかと意味がだぶって聞こえるのでなんか独特の雰囲気を感じるようになった。
木陰に行くと、さっきの足をしばられた黒い羊が横たわっている。ハビブさんはまずお祈りの言葉を唱えると、あとは慣れた手つきでさっさと進めていく。まず首の動脈を切る。地面の少しくぼんだところに一気に血を流しだす。イスラムではここで血を全部出し切ることが大切なのだそうだ。といっても大した量ではない。次に足首のところから皮と肉の間に木の棒をぐいぐいっと差し込む。よくしごいてしっかり皮をはがすと棒を抜いてそこから口をつけて息を吹き込む。すると空気が皮の下にはいりこんで、体中がぱんぱんにふくれあがっていく。風船みたいになった体をちょっとボンボンと叩いて、しっかり空気が入ったことを確認している。そして皮をナイフではずしていく。まず片側、つぎに反対側、背中がまだついているところで足首と頭をおとして、後ろ脚をひもでしばって木からぶらさげて、それから残りの皮をはずす。そうすると肉に土がつかないのだ。肉はとてもきれいで、血が流れたのは本当に最初だけだった。おとした足首、頭、皮はきれいに並べてある。そして下にタライを置いて腹を切って内臓をだす。ここまでほぼナイフ1本。このあと肉を細かく分けていくときに手斧みたいなので骨を切っていたが、あざやかなものだ。どこをどうすればどうなのか、完全にわかっている。時折鼻歌すら。ふとハビブさんは獣医さんだからなのか?と思って聞いてみたら、ここの人たちはしょっちゅう羊を食べているので、しょっちゅうやっていることなんだそうな。
さて、肉を持ってさっきの家に戻るとそこの若いお母さんがそれを料理してくれた。ハビブさんの家もそうだが、台所の火は基本的にかまどなので、半屋外になっている。この家の場合は屋根はあるがほとんど外、っていう感じ。
料理をしている間、それを眺めて待っていたのだが、わたしはちょっと炎天下でダウン気味、柱にもたれてしゃがみこんでいたら、ハビブさんが疲れた時に効くという草の実をいぶして焚いてくれる。
料理は、まず羊の油で肉をいため、玉ねぎ、ピーマン、トマトを少し入れて、水とじゃがいもを入れてふたをして煮込んだもの。味付けは塩とクミン。料理ができあがると室内に案内された。中はうす暗くて床はカーペット、狭い部屋の中には赤ん坊のゆりかご、その横で小さい坊やが一人寝ている。台の上に食事が用意されていて、奥の壁には衣装箱みたいなものが積んで布がかけてあった。
できたての料理、じゃがいもがホクホクして肉も癖がなくやわらかくてとても美味しいのだが、すぐおなかがいっぱいというか胸がいっぱいになって、あまり食べられない。石川君も羊を食べたいとリクエストした手前いっぱい食べていたが、実はちょっと苦しそうだ。固いナンとチャイと一緒にいただいた後は、水分たっぷりのスイカ。トルコのメロンも美味しかったが、このスイカも本当に美味しかった。気候が乾燥しているほど果物は実の中に水を溜めるのだ。
料理の写真も撮りたかったのだが、部屋が暗すぎて撮れなかった。ハビブさんがカーテンを開けて光がさしこんだ時にやっと撮れました。この食器はウズベキスタンの超定番。どこの家でも見かけた。
食事が終わって外に出ると、台所で羊の胃や腸をゆでて洗ってきれいにしている。
作業している母と娘の顔は、多分すごく典型的なウズベキ人の顔。目がちょっと真ん中に寄った感じ。昔は眉毛をつなげて書くという化粧をしていたらしいが、さすがにそういう人は見かけなかった。でもアリシェルさんの眉毛はほんの少しつながっている。
さっきごはんを作ってくれた若いお母さんはきれいな人だったが、強い日差しの下で生活する人の眉間に刻まれた深いしわが印象的だった。(まぶしいからつい眉間にしわを寄せるのだ。)日差しのせいか暮らしのせいか、ウズベキの人は老けるのも早い。結婚も早いし、そうすると当然一人前に生活できるようになるのも早い。ハビブさんの家は娘2人と男の子が1人。上の娘は15歳でお母さんの手伝いを何でもしている。井戸の水汲みをしたりかまどの火を調節したり。動物の世話をしたり下の子のめんどうをみたり。そしてだいたい17歳から23歳くらいまでには結婚させたいとハビブさんは話していた。
ハビブさんの家に戻り、少し休憩すると、お母さんが夕食の支度をしているので見せてもらう。ついでに家のあちこちを見せてもらったりおしゃべりしたりと、ゆったりとした午後。
回廊に置いてある寝台(なんと呼べばいいのか?)に腰掛けておしゃべり。柱の上の方にぶらさげてあるかごのようなものの中からハビブさんはひょいと何か丸い物をつまんで口に入れる。自家製のチーズボールだ。石川君がもらって食べたが、すごくしょっぱい!
さて、今作っている料理はこれです。
さて、外台所のすぐ横には小さな溝があって水が流れている。
回廊に面した中庭はこんな感じだ。低い木立の鮮やかな緑がきれい。木の幹の下の方が白く塗ってあるのは薬なんだと思うが、最初ウズベキ空港に着いた時からどこへいっても見かける。ウズベキ中のすべての木に塗ってあるんじゃと思うくらい、徹底的に塗ってあるのだ。
カザンケバブを仕込んだお母さんは、次に小麦粉をだしてきてこねはじめた。
こね上がった生地をちいさく分けてめん棒で薄く薄くのしていく。一枚一枚、すごく薄くしている。私にもやってみる?と言ってくれたので、一緒にのしていったが、私がのしたのをいちいち直される。まだまだ分厚いらしい。かなりたくさんの薄ーい生地ができあがると、かまどに火を入れた。
全部焼き上がると今度はそのかまどにたっぷりと牛乳を入れ、水で溶いた小麦粉を入れてかき混ぜる。砂糖もどっさり入れる。しばらくかきまぜているととろーりとしてきて、甘いホワイトソースのようなものが出来上がった。そして先ほどのクレープに一枚一枚ソースを塗っては4つに折りたたんでいく。そして最後に溶かしバターの鍋をさっとくぐらせて、できあがり。ギュルミンドゥという甘い料理だ。
それを作っている間に大きいほうの娘が何か堅そうなものを切っていると思ったら、それはナンで、たぶん残り物をうまく利用する料理なのだ。固くなったナンと野菜のヨーグルトサラダになった。
藍子はいつの間にか娘たちと仲良くなって一緒に走り回っている。放っておいておしゃべりしているうちに夕方になってきて、そろそろ中に入りましょう、という感じになる。
できあがったカザンケバブ、ギュルミンディ、ナンと野菜のヨーグルトサラダ、果物、ナン、チャイがテーブルに並んでいる。藍子は娘たちと母屋の部屋に入って出てこない。どうやらテレビがあるようだ。お母さんが一緒に食べたらいいといってくれたので、テレビを見ながら一緒に食べていたらしい。私たちの夕食の皿を下げて、川で洗って片づけたんだよ、とあとで言っていた。
カザンケバブはお肉も美味しかったが、なんだかもう肉やミルクなどの動物性のものが重たくて食べ辛く、じゃがいもや人参にばかりつい手がのびる。ギュルミンディは想像通り、甘くてこってりしたボリューミーなおやつって感じの料理。ハビブさんの家は牛を飼っているからか乳製品が濃くて豊富だ。美味しいのだが、なんかもう体に重い。しかしハビブさんの好物だそうで、4つも5つも食べている。ヨーグルトサラダはさっぱりとして美味しかった。固くなったナンがほどよく水気を吸って、食べやすくておしゃれな1品と思ったら、教えてもらった料理だという。このあと明日サマルカンドに行くのだが、そこでハビブさんの知り合いの料理上手な女性がやっているレストラン兼ホテルのようなとこへ行くのだが、その女性がハビブさんの家に来た時にいろいろ教わった料理のひとつだったんだそうだ。
食事をしながら、石川君はハビブさんに今日の羊はどうでしたか?と聞かれた。石川君が素晴らしく美味しかったが、ちょっと重たくてあまり食べれませんでした、と言うと、ハビブさんは暑い季節には羊の肉は体に良くない、と言う。ハビブさんは季節的には牛の肉をごちそうしようと思っていてくれたそうなのだが、石川君があんまり熱心にひつじひつじと言うので羊を切ってくれたのだ。でも、日本では羊のしかもこんなにフレッシュな状態のものはなかなか手に入らないし、切るところをみせてもらえたのもとても貴重な体験だったといろいろ話した。
結婚についての話もいろいろした。ウズベキではイスラムの教えを守っているということもあるが、考え方はとても単純で、ある意味本質的といえるのではないかとさえ思った。つまり子供たちは年頃になるまでに男女それぞれの仕事がきちんとできるように仕込まれる。女の子なら一人で家の中のことをすべてできるようになっていなければならない。結婚とは家庭を持ち、子供を産み育てること。恋に落ちたふたりのゴールイン、という場合もあってもその前提は変わらない。もちろん恋愛結婚もあるようだが、田舎ではやっぱり親同士がある程度決めたりということもあるようだ。でも田舎での暮らしの大変さを見ていると、現実的に考えるのが一番まともだし、イスラムの教えに従って生きるのがある意味一番生きやすいのだと思えてくる。ところで藍子は最初の晩にハビブさんにいきなり「おしん!」と言われ、え、おしんってあのおしん?ととまどうわたしたちにアリシェルさんがドラマのおしんはウズベキスタンで有名ですよと教えてくれたのだが、「おしん」の世界がウズベキで共感を呼んだのが分かる気がした。日本に帰ってからウズベキスタンの留学生と話した時に、最近の日本の学生(20歳そこそこの)はおしんを知らないと言っているのを聞いてさみしくなった。ウズベキスタンのことを単に遅れていると言うことは簡単なのだが、おしんのように同じような暮らしをしていた時代もあったのだ。日本が経済的に発展し、自由や個人主義を手にするなかで失くしたもの落としたもの見えなくなったもの、そういうところにやたら目がいってしまう。よく働くハビブさんの娘たち、棒っきれをもって牛や羊を追って山を駆け上っていく一番下の男の子、生き生きとした子供たちの姿に未来を感じる。
そんな話はいつまでも続きそうなので、わたしは先に失礼して休ませてもらった。藍子はどこに行ったんだ?と母屋に探しに行くと、ずっと娘たちと一緒で、テレビをみながらくるみを割って殻から出すのを手伝っていた。